車内でちゃぷちゃぷ揺れる灯油と宇宙のスケールの話

冬だ。

 

誰が何と言おう冬に突入している。冬の風物詩と言えば、家先で洗う野沢菜と、車の中で揺れる18リットルの灯油だと思っている。野沢菜は洗う水が冷たければ冷たいほど美味しく漬かると聞いていたが、普通に他の家では「えっ、お湯で洗ってるよ」と聞いたときは愕然とした。過ぎ去った時間は戻ってこない。一方、灯油はちゃぷちゃぷ。ブレーキを踏むとちゃぷちゃぷ揺れる。

 

さて、今回の話題は車内の灯油である。真っ先に思うのは「もし、蓋が取れたらどうしよう」ということだ。蓋が取れたらとんでもないことが起こる。車の中が灯油まみれになる。それはかなり臭い。と見せかけてちょっといい匂いだ。おっと、この発言は時事的に危ない。うそだ臭くてたまらない。

 

誰しも経験があると思うが、ふと目を離した隙に醤油チュルチュルを経由した灯油が、ストーブの灯油缶から溢れてしまっている状態。この惨劇。そして、灯油は拭いても何か拭き取れる感じがしない。だからこその灯油か。

 

という思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。それが車の中で起こったとしたら。。。気が気ではない。早く目的地、それはだいたい自宅であるが、に到着しなければ。

 

かといってアクセルを全力で踏むわけにはいかない。急ブレーキをしたら本当に倒れて蓋がとれてしまうではないか。いかんいかん。自分が何をしたかったんだか忘れてしまっていた。危ない。これは仕事でも人生でも、中でも引越しの最中によくあることだ。

 

そんな時は、この灯油はどこから運ばれて来たんだというところに想いを馳せる。遠くの国からどんぶらこどんぶらこと運ばれて来たんだろう。タンカーで。海上保険をかけて。中東から来たのだろうか。随分遠くから来たではないか。

 

いや、そもそも灯油は石油から精製されるわけだが、その石油は昔の植物がなんかうまいこと変化して石油になったというではないか。今では砂漠の地域もその昔は緑が生い茂り、その植物が堆積してなんかうまいこと力が加わって石油になった。

 

幾年の時を経て、そして遠くの地から、今、車の中にあるのではないか。そんな奇跡を考えれば、今、この車の中でこぼれること、こぼれないことに何の意味があろうか。灯油そのものを愛すればいいのだ。今、ここにある奇跡。

 

このままこぼれず自宅に到着するよりも、むしろこぼれて悲惨な思い出として将来の笑い話として語り継がれる方が自分とっても灯油にとっても石油をつくってくれた地球にとっても幸せなのではないか。

 

そして、僕はコンビニにハンドルを切り、そっと灯油の蓋をあけた。

 

とまぁ、開けるわけはないのだが、この思いっきり壮大なスケールでいったん考えることで、今の悩みを極少化する手法は昨今よく使われている。

 

わかりやすいのは、女と男の出会いだ。ここで出会った奇跡とか言い始める。数学的に見ればあなたと出会う確率とあなたでない誰かと会う確率は等しい。むしろ誰かと会う確率と考えればほぼ100%だ。

 

だいたいこの奇跡とかいう単語をよく使うやつに限って、数学的が苦手なやつだったりする。数学が嫌いだったくせにこういう時に数学的な視点を持ち出してくる。なんとご都合主義だろうか。数学が好きなやつは容易に奇跡とか使わないはずだ。困ったもんだ。

 

しかし、踏ん切りがつかないときは壮大なスケールに思考を持っていくことは良いことだ。かくいう自分も、なんかミスってくよくよしてた時に、宇宙から見れば今回のミスも誤差だとか言っていた。宇宙とミスを比較することにどんな意味があるのだろうかと聞かれればまるでないんだけど。

 

なんとずるい人間なんだ。かたや男女の出会いの奇跡は否定しつつ、灯油が車にあることの奇跡を許容し、ミスと宇宙と全く噛み合わないものを比較し心の安定をはかっている。アーメン。

 

しかし、僕は生きる。

 

と、またどうしようもないものを書いてしまった。