上田市についての不満の話

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私が住んでいるのは長野県上田市だ。

 

悪くない。夏は涼しいし、晴れの日は多いし、ロードバイクに適した登り坂もあるし、真田丸で注目されてるし悪くない。むしろ好きと言っても良い。

 

東京にも近い。まぁ、地方のアピール方法として、東京の生活、満員電車とかつらくない?など言っておきながら東京への近さをアピールすることに疑問は持ちつつも東京に近い。通えたりもする。

 

田舎はだいたいそうだが上田市も自然があって水もうまい。

 

しかし、ただ一点だけ不満がある。

 

それは、、、

 

 漢字が簡単ということだ。

 

 

 上田

 

 

 小学一年生のしかも初期に習うであろうこの漢字。方向を表す上下左右の中でももっとも単純と言える「上」という漢字。縦棒一本と横棒二本で書けてしまう。同じく縦棒一本と横棒二本で書けるのは、カタカナの「コ」であり、漢字の「土」「士」だ。

 

そしてもう一文字が「田」だ。田んぼの田であり、田中の田だ。縦棒三本と横棒三本の幾何学模様だ。鉛筆を持ち始めた子どもが偶然書くことだってある。

 

この上と田を組み合わせた地名。上田。やばい。簡単すぎる。ヨコミネ式保育園ではアイウエオから教えずに、一、二、し、など書きやすい文字から教えるという。なんと理にかなった教育方法か。そんなヨコミネ式でもひらがなの「あ」や「ぬ」よりも先に出てくるんじゃないか。

 

しかもアルファベットにするともっと陳腐だ。

 

UEDA、ueda

 

あたたた、、、すっかすか。小文字の醍醐味でもある下に出る文字、gやyがない。この文字があるからアルファベットは収まりが良いのだ。それがない。

 

これで困るのは高校球児だ。ユニホームが収まりが悪い。それは上田東高校が、上田がなかったことにして、Higashiと書いていることからもわかる。僕の出身校はその名も上田高校だが、大文字でUEDAと胸に力一杯書かれている。何の恥ずかしげもなく。

 

まぁ、とにかく、なんだか簡単な街だと思われそうだ。

 

しかし、人間の感覚なんて、相対的なものである。上田が本当に簡単なのかを見てみたい。比較としてはやはりちょっと名の通っ田、、、「た」が勝手に田に変換されているではないか。通った地名を見てみたい。

 

鎌倉

 

かなりかっこいい、画数も多い、斜め線も入っている。破裂音の「ら」まだ入ってる始末だ。そりゃカヤックも鎌倉に本社を置くって話だ。

 

那須

 

ひらがなで書けば、若干まぬけな感じがするはずなのに、この美しさよ。那須高原。高原との相性も良い。高原とつくとだいたいかっこいい。

 

軽井沢

 

目の上のたんこぶ。まず漢字三文字なのがやばい。伊集院的な雰囲気がある。やはり漢字が三文字ってだけで格が出てくる。

 

函館

 

まず読みにくい。読みにくいだけで、何かかっこいい。やはり秘密をもっている人は魅力的なのだ。

 

飛騨

 

かっこいい。まず「飛 」という漢字。一見アンバランスに見えるが、絶妙なバランス。儚いバランスとでも表現しようか。そんな「飛」を「騨」がどっしり支えている。そして十分な画数。

 

上田

 

なんじゃこりゃ。直線と直角のみ。すっかすかだ。重厚感もまるでない。

 

う、えはあ行だ。平仮名をまなび始めたらすぐ出てくる。あ、い、う、え、、、、既にふた文字出てきている。

 

更に、文字を重ねると、あろうことか「田」だけになる。上が田に吸収されるて消えるではないか。田を見ていると上が浮き上がってくる。これほどまでに単純な形象に僕らは厳かな雰囲気はもてるのだろうか。

 

世の中は手数がかかったものにたいして畏敬を払うことが多い。ピラミットにしろ大坂城にしろ伝統工芸にしろ。いわんや文字をやだ。

 

「豪華絢爛」とか、やっぱなんか豪華だ。やはりだてに画数を使っていない。それに比べて上田。あー、、、なんて単純なのだ。シンプルとも違う。シンプルは簡単なのになんかいいバランスであることだ。上田は単純なだけだったりする。

 

しかし、ここで日本にいる上田さん全員を敵に回しかねないことに気がついてしまった。人の名前としての上田はまるで違う。とにかく地名としてどうかということなので。ここだけは声を大にして言っておきたい。

 

まぁ、漢字はともかく、故郷という楽しい喫茶店がある街なので、善光寺軽井沢や金沢に行く際にふらりとお立ち寄りいただければと思っています。

 

ということで上田市についてのささやかな不満の話でした。静岡県下田市の人にもここら辺を聞いてみたい。迷惑がられると思うけど。

 

 

 

 

 

 

顔がでかいことの克服方法

私は顔がでかい。というか長い。

 

顔がでかいことで悩んだことのある人は少なくないだろう。私もその一人だ。

 

顔がでかいことに不便はない。かといってたいした便利もない。なぜ、特に利便性がないのに顔を縮まないのか。おのれの遺伝子さんは。

 

ここで顔がでかいことを認識することの難しさをお伝えする。

 

顔がでかいことの落とし穴は、いつも見ている顔なので、その大きさは普通、特にでかくない、体とのバランスも悪くないと思えてしまうのだ。そして、小顔の人を見ても、その隣に自分の顔があるわけではないので比較ができないのだ。

 

これらの原因は目が顔についているという、かなり当たり前の事実によるものだ。常識を疑えとはいうけれど、顔に目がついていることを疑うのはなかなか難しい。

 

そして、いつしか気づく。自分は顔がでかいということを。

 

だいたい中学生ぐらいなのだろうか、男の場合は。中二病という言葉があるが、思春期真っ只中に自分は顔がでかいという事実に直面する。まぁ、だいたい友達に「顔でかくね?」と言われて気づくのだ。

 

そして家に帰って鏡を見る。ナイスバランスなのである。その理由は先述の通りだ。しかし学校に行くと顔がでかいとなる。

 

顔がでかいというのは、ほぼ遺伝によるので、本人にはまぁ、どうしようもできないものである。努力で顔は縮まない。

 

あと顔がでかい、顔が長い、頭がでかいの3種類があって微妙に違う。芸能人でいえば、

顔がでかい トミーズ雅

顔が長い ココリコ田中

頭がでかい アンタッチャブル山崎

だろうか。顔がでかいと頭がでかいはあまり差がない。頭がでかい人の特徴は入る帽子がないということだ。

 

思春期に顔のでかさに悩みながら、幾年か経つと、「まぁ、顔がでかくてもなんとかなるだろう」みたいに心境も変わってくる。というかそう思うしかやってられないのだ。テレビでもこみちを見たときの衝撃は凄かった。

 

とはいえ、しょうがないということで、感情を押し殺しているだけだ。本来心の奥にドス黒い気持ちが昇華されずに残っている。

 

大学に入り、社会人になり、SNSか流行りだして、自撮りだのなんだのが騒がれだした。そんな折に、女子2人でうつる時は後ろの位置どりをしたいみたいな記事だかテレビだかで見た。

 

つまり、後ろの方が遠近法の関係で小顔に見えるんだって話だ。前の方に立つ女子は内心やられたとか思いながらも写真は撮らざるを得ないと。

 

「なんだって、、、」

 

オレは何とムダな時間を過ごしていたのか、、、

 

顔がでかいってことは隣の女子の顔を小顔にできるのだ!そう

 

写真を撮る隣に僕を

 

だ。このSNS全盛期こそ輝けるではないか!顔がでかい男子のみなさん遂にぼくらの時代です。

 

そして、何より女子の皆さんにお伝えしたい。顔が小さい男でいいんですか?隣に置くなら顔がでかい男の方が良くないですか?今一度考えていただきたい!小顔のイケメンは観賞用。隣にずっと置くのはデカメンではないでしょうか!?

 

この視点。この視点を持った若かりし頃に持っていたら、合コンでももっと輝けたかもしれない。それでも比較的若い時に気づけたのかもしれない。そしてこうして顔のでかさを売りにできることを発信できたのだから良しとしよう。

 

 

 

 

車内でちゃぷちゃぷ揺れる灯油と宇宙のスケールの話

冬だ。

 

誰が何と言おう冬に突入している。冬の風物詩と言えば、家先で洗う野沢菜と、車の中で揺れる18リットルの灯油だと思っている。野沢菜は洗う水が冷たければ冷たいほど美味しく漬かると聞いていたが、普通に他の家では「えっ、お湯で洗ってるよ」と聞いたときは愕然とした。過ぎ去った時間は戻ってこない。一方、灯油はちゃぷちゃぷ。ブレーキを踏むとちゃぷちゃぷ揺れる。

 

さて、今回の話題は車内の灯油である。真っ先に思うのは「もし、蓋が取れたらどうしよう」ということだ。蓋が取れたらとんでもないことが起こる。車の中が灯油まみれになる。それはかなり臭い。と見せかけてちょっといい匂いだ。おっと、この発言は時事的に危ない。うそだ臭くてたまらない。

 

誰しも経験があると思うが、ふと目を離した隙に醤油チュルチュルを経由した灯油が、ストーブの灯油缶から溢れてしまっている状態。この惨劇。そして、灯油は拭いても何か拭き取れる感じがしない。だからこその灯油か。

 

という思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。それが車の中で起こったとしたら。。。気が気ではない。早く目的地、それはだいたい自宅であるが、に到着しなければ。

 

かといってアクセルを全力で踏むわけにはいかない。急ブレーキをしたら本当に倒れて蓋がとれてしまうではないか。いかんいかん。自分が何をしたかったんだか忘れてしまっていた。危ない。これは仕事でも人生でも、中でも引越しの最中によくあることだ。

 

そんな時は、この灯油はどこから運ばれて来たんだというところに想いを馳せる。遠くの国からどんぶらこどんぶらこと運ばれて来たんだろう。タンカーで。海上保険をかけて。中東から来たのだろうか。随分遠くから来たではないか。

 

いや、そもそも灯油は石油から精製されるわけだが、その石油は昔の植物がなんかうまいこと変化して石油になったというではないか。今では砂漠の地域もその昔は緑が生い茂り、その植物が堆積してなんかうまいこと力が加わって石油になった。

 

幾年の時を経て、そして遠くの地から、今、車の中にあるのではないか。そんな奇跡を考えれば、今、この車の中でこぼれること、こぼれないことに何の意味があろうか。灯油そのものを愛すればいいのだ。今、ここにある奇跡。

 

このままこぼれず自宅に到着するよりも、むしろこぼれて悲惨な思い出として将来の笑い話として語り継がれる方が自分とっても灯油にとっても石油をつくってくれた地球にとっても幸せなのではないか。

 

そして、僕はコンビニにハンドルを切り、そっと灯油の蓋をあけた。

 

とまぁ、開けるわけはないのだが、この思いっきり壮大なスケールでいったん考えることで、今の悩みを極少化する手法は昨今よく使われている。

 

わかりやすいのは、女と男の出会いだ。ここで出会った奇跡とか言い始める。数学的に見ればあなたと出会う確率とあなたでない誰かと会う確率は等しい。むしろ誰かと会う確率と考えればほぼ100%だ。

 

だいたいこの奇跡とかいう単語をよく使うやつに限って、数学的が苦手なやつだったりする。数学が嫌いだったくせにこういう時に数学的な視点を持ち出してくる。なんとご都合主義だろうか。数学が好きなやつは容易に奇跡とか使わないはずだ。困ったもんだ。

 

しかし、踏ん切りがつかないときは壮大なスケールに思考を持っていくことは良いことだ。かくいう自分も、なんかミスってくよくよしてた時に、宇宙から見れば今回のミスも誤差だとか言っていた。宇宙とミスを比較することにどんな意味があるのだろうかと聞かれればまるでないんだけど。

 

なんとずるい人間なんだ。かたや男女の出会いの奇跡は否定しつつ、灯油が車にあることの奇跡を許容し、ミスと宇宙と全く噛み合わないものを比較し心の安定をはかっている。アーメン。

 

しかし、僕は生きる。

 

と、またどうしようもないものを書いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

居酒屋でのポテトサラダの頼み方

居酒屋で頼むものにポテトサラダがある。私は無類のポテトサラダ好きだ。自分ではまだ作っていないけど。居酒屋では必ずポテトサラダを頼む。今回はその頼み方にちょっと触れておく必要があると思ったのだ。

 

私はメニューを見ずにポテトサラダを頼む。

 

この感覚。メニューにあるなしは関係なく食べたいから頼んでみようというこの感覚。僕らはこういう感覚を忘れてはいないだろうか。

 

そもそも、居酒屋にメニューは必要なのだろうか。メニューってなんだ?あなたの本当に食べたいものがメニューに載っているのか?メニューに縛られてはいないだろうか。本当に食べたいものから目をそらし、妥協をしてはいないだろうか。店側だってそうだ、メニューを作った時の気持ちと今の気持ちは同じなのだろうか。本当に提供したいものだろうか。メニューがあるから無理して旬が過ぎたものを仕入れてはいないだろうか。そんなメニューに意味はあるのか。しかも、メニューがあるから、「メニューの写真と違う。草生える」みたいな不満がツイッターとかに掲載されてしまったりもするではないか。

 

結論は「いる」だ。

 

やはり、メニューはいる。メニューがないと悩む。メニューがないと食材の準備が難しい。メニューにより、店の経営はメニューがない時より容易になり、多くのお客さんに食事を提供できる。食材を納める業者の経営も安定する。顧客も悩まなくていい。そもそもそんなに自分の食べたいものを明確にしている人はいない。そもそも空腹を満たすための食事であれば、ぶっちゃけ何だっていいという人だっているではないか。そもそも居酒屋にきた人全員が居酒屋にきたいわけではないはずだ。誰かの誘いを断れない。状況的に断れない人も来ているだろう。そんな人が前向きに食べたいものを考えるだろうか。そうやってできあがっている社会だ。現代は。いまよりずっと前に決めた意思で回っている。法律だって現代にそぐわないものもあるのに、決め直すのがめんどくさいってことでそのままになっているいわんやメニューをや。

 

そこで、放り込む。ポテトサラダを。

 

メニューを見ずに、放り込む。ポテトサラダを。当然、ドリンクより前にだ。一瞬時間が止まる。そもそもドリンクメニューを聞きに来ているのだ店員さんは。だいたいビールかウーロン茶だろうとたかをくくっている。そうでなくてもドリンクを頼むだろうと思っている。そこでポテトサラダ。

 

しかし、どこかでポテトサラダを頼まなければならないというドグマに支配されているような気もしてきた。そう、世界がメニューに支配されているように自分もいつかの自分に、そしてポテトサラダに支配されているのだ。ポテトサラダを食べていたつもりが自分がポテトサラダに食べたられていた。気付かないうちにオレはポテトサラダの一部になっていたのだ。

 

真顔日記っていうのが超絶面白くて自分もなんか書きたいと思って書いたらこのざまだ。なんかごめんなさい。